ウルトラパンク&ポップな実践存在ガイド

世界が在ることを徹底的に破壊した果ての創造を生きよう

実在を確認できない問題

ネタとしては前回のオチを詳しく話すだけなのですが、、、

前回

ultrapop.hatenablog.com

 

なぜ鉄アレイは前田吟ではないか? 

タイトルの通り、なんであれ実在するってことをうまく納得できなくなったのです。

そりゃ、目の前に鉄アレイが在れば「ああ、鉄アレイが在るな」って思うし、認識もしているんですけどね。これが在るということを、どのように確認して、保証すればいいんでしょうね?これは断固として鉄アレイであり、綿あめではなく、前田吟でもない、そしてソレは実在しないのでもない、……なんてことをどうやって確認すればいいんでしょうか?

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友だちにソレ(鉄アレイ)を見せて「これなんだと思う?」と聞いてみるのも一つの手段かもしれないです。彼は怪訝な顔をして「ん?鉄アレイでしょ」と答えてくれるのかもしれませんね。けれど、どうしても疑いは残るのです、

  • 友だちはソレを内的に認識していないが、機械的に「鉄アレイ」と音声を発しただけなのかもしれない
  • 友だちはソレを「ミキプルーンの苗」と内的に認識しているのだが、どうしても「鉄アレイ」としか発語できなかったのかもしれない

 

実在するとはどういうことか?

そもそも何かが実在するということは、どういうことなんでしょうか?

実在っていうのは、実際に存在するってことでしょうけど、どういった条件をクリアすれば良いのか?困ったときのwikipediaにはこんな風に書かれています。

 

実在 - Wikipedia

実在(じつざい、reality)は、認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの。

 

なるほど、そだね。

この定義によって問題点が分かりやすくなります。私がソレを「鉄アレイだ」と内的に認識していることについては問題ないのです。そうじゃなくて問題なのは、

 

ソレが「鉄アレイ」として存在していると、他人が内的に認識していることを確認できない!ゆえに、客観性というものがあり得ない。

 

っていうところです。なぜなら、前回の話 で他者の経験を確認することができず、私以外の主観を確認することもできなかったからです。

それって、客観的に物事を観ている他の視点を確認できないってことですから、つまりは客観的な何かを確認できないことになります。すると、……実在も確認できないはずです。

 

哲学的ゾンビやセンサが反応するのは、主観的に見るのとはちがうので

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もし先ほどの友だちが哲学的ゾンビだった場合、鉄アレイをカメラに写すと「テツアレイデス」と答えるAIが機械的に反応したのと同じですよね。鉄アレイに反応するセンサが反応したからといって、それは客観性とは呼べないのではないでしょうか?

一応、私の鉄アレイについての経験には他の対象との整合性がある、ということは言えるはずです。とはいえ仮に幻であっても整合性を持ってふるまうことは十分にありえるわけなので、整合性と客観性が同じだとはいえないと思います。

 

ひとりぼっちだったら世界には中心しかない

明日の朝、宇宙に知的生命体がいないことが確認され、午後に大戦争が起こって一人ぼっちになったとします。そのとき、客観性と言えるものは何もなくなります(※1)。廃墟に残された鉄アレイ判別センサにソレを見せて「テツアレイデス」と表示されたところで、やはりそれは客観的に鉄アレイだと言えないんじゃないんでしょうか。

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そう!日常的な意味で鉄アレイの実在を認識する時、実は「他者もそれを鉄アレイだと内的に認識しているはず、していたはず、するはず」という根拠のない前提を無意識に置いているんです。

(※1 廃墟に残された「日本の歴史」という本を開き、過去に誰かが書いた太平洋戦争の記述を読んだのなら、やはり太平洋戦争は客観性のある事実だと言えるのかもしれません(その筆者が内的な経験をしていた、という根拠のない仮定をねじ込むことで)。あるいは本なんか無くても過去の記憶を反芻することで、他者と語り合った事実などを思い出せるのであれば、やはり客観性が在ると主張できるかもしれませんね。……だったら、たまたま午後に産まれた一人の赤ん坊だけが生き残り、過去の遺物は焼き尽くされた世界でもいいです)

 

他者や他者と共有できる世界を仮定すること

これがキリスト教神学であれば、なんの問題も起こらないでしょうね。私がそれを鉄アレイと確信するなら、他者も鉄アレイと確信しているから。だって、我も彼も等しく神の被造物であり、同じ経験をするはずですもんね。そういった等質性やら同じ対象への経験の紐づけは神が保証しているので、疑う余地はないように思います。

 

だがしかし、他者が内的に経験していると確認できなければ、私は一人で幻を見ているだけなのかもしれないという疑いは残ってしまうんです。その幻が物理的な整合性を持って経験されうる以上(ソレを持ち上げると重たいとか、ソレで田原俊彦を殴り続けると死ぬとか)、他人の言動もあてにならないのです。他人の言動も内的な経験が無ければ、物理的な連鎖反応に過ぎないですからね。

 

実在を経験するために必要なもの

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デカルト先生みたいに「我思う故に我あり」から始めるなら、「我経験する故に我あり」まで妥協した(言い換えた)うえで、鉄アレイの実在を認めるには(つまり客観性を与えるには)「彼経験する故に彼ありを我経験せり」がどうしても必要になると思うのです。そんで、そんなのできないよっていうのが、前回の話です。

 

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いちおう誤解のないように書いておきますが、なにも「実在は疑い得るから、そんなものねぇよ、幻想だ」と言いたいのではありませんです。そうじゃなくて「日常的な実在の概念を保証しようとしたら、どうしても無理っぽいわ。じゃあ、どう捉えなおそう?」がウルトラポップな私のスタンスです。