因果律は、どこまで信用できるか?……わぁーできなーい
因果律はどこまで信用できるか?
結論:因果律は無条件に現実へ適用できないはずです。ある仕方で、ある程度信用してもいいと思うのですが、世界で起こる事実の全てにあてはめるのはダメなんじゃないかなって思います。
前回までのあらすじ
前回までの話で存在の問いが最強かつ最凶の問いということになりましたので、いよいよ問いに切り込んでいくツールを検討していきたいと思います。今回は存在の問いに向けて、因果律を使って考えていくのは良さげだけど、実はやっぱダメだよねってヨタ話になると思います。……な、なるんじゃないかな?
因果律と存在の問いの関係
いきなり因果律センパイのことをディスり始めてますので、なんのこっちゃらという感じが否めません。まずは話を固定するために今回使いたい因果律の定義から。
困ったときのwikipediaによれば、因果律っていうのは、
「全ての出来事には原因がある」ってことだそうです。
だからこそ、世界や存在について考えるときに、因果律は避けて通れないんです。まだまだなんのこっちゃですが、その理由には以前のエントリが関係しています
上のエントリでは物事を「そもそも」と前提を考えていけば、いつしか存在の問題に行きつくって妄想を垂れ流しました。
これって逆にいえば、存在の問題を考えるには、前提を突き詰める必要があるってことです。前提を突き詰めるっていうのは、物事の原因を突き詰めるってことですから、因果律、すなわち「全ての出来事には原因がある」によって詰めていくしかないってわけです。
……しかし、イヤな予感がしませんか?存在の問題を詰めていけるっていうのは良いですが、前回のエントリでは存在の問題は解けないってことになってました。
頑丈で解けないはずの存在の問いと、そこに切り込んでいける因果律っていうツール、まさに無敵の盾と矛の激突する、矛盾ですね。
……どこで間違ったのでしょうか?
因果律は信用できないのです
因果律によって存在の問題へと切り込んでいけるのであれば、因果律はいかなる世界の状態においても世界を支える基本的な働き(世界の基底)であるはずです。
そして因果律が(世界の基底)であるならば、すべての対象が因果律に従うはずです。
ところが因果律が常に正しいとするならば、世界の始まりには何も無いことになります。その理由は2つ
- (理由1)何であろうとそれが在るとしたら、(因果律を世界の基底とするからこそ)「それはどうやって生じたの?」という問いに答えがありうるはずです
- (理由2)世界の始まりには「それはどうやって生じたの?」という問いに答えのありうる対象はなにひとつ無いはずです(”それ”に原因があるならまだ世界の始まりにたどりついてないですもんね)
あらゆるものに生じた原因があり、世界の始まりには原因の在りうる対象は無いのですから、世界の始まりには何も無いはずです。
世界の始まりには何も無い、、、 なんかいかんのか?と言いたくなるかもしれませんね。しかし、すくなくとも2つの致命傷となる矛盾があるのでいかんはずです。
致命傷1
まずは致命傷1から。何も無い世界の始まりで「どうやって因果律は生じたの?」という疑問に答えられません。因果律が(世界の基底)であるならば、それ自体も「全ての出来事には原因がある」に従わなければなりません。
図式化するなら、こんな感じでしょうか
この図式によって、矛盾が2つ明確になります
ダメじゃないでしょうか?
あるいはとにかく不可解なことができる超越カミサマによって因果律が生みだされたと考えることもできないのです。
- カミサマが無から因果律を生み出す働きの因果律を因果律A、その結果生じた私が経験している因果律を因果律Bとして別のものだとしてみます
- 因果律Bを私が経験しているのであっても、問題にしていたのは因果律の起点ですよね。因果律Bの原因をさかのぼって因果律Aにたどりつくのであれば、因果律のさかのぼりはもともと因果律Aの起点を目指していたことになります(問題にしていたのは最初から因果律Aの起点だったと気がつくっていうだけです)
- それでは超越者はただの中継点になって無意味になるわけですよ。追求するべきなのは「働き」「成り立ち」のはずで、カミサマのハリボテじゃなかったはずです
致命傷2
続いて致命傷2について、因果律が世界の基底であるならば、まさにそのことによって
何も無い → (因果律) → 何かが在る
という図式が成り立たないはずです。だって、何かが在るなら元となる原因が何かあるはずですもんね。あるいは現代科学っぽく「何も無い」とは「存在と存在の否定の対消滅」である、としたところで、そうやって対消滅する働きが生じた原因を説明できないのです。それは、
何も無い → (因果律) → 対消滅する仕組み(という一つの存在)
となって矛盾したままなのです。
というわけで、因果律は世界の基底ではないことが分かります。
すると何が言えなくなるか(過激派
だからたとえば「持ち上げた鉄球から手を離すと地面に落ちるのは、因果律に含まれる万有引力の働きによる」と語ることは本来できないのです。だって因果律を現実にあてはめていい条件が分からないからです。
(ただし因果律を公理として現実に適用すると生活がいろいろ便利になる、っていうのはほぼ正しい話であるはずです。因果律は嘘だ、幻だって話ではなくて、少なくとも世界の始まりにおいては矛盾するので、因果律という公理=リアルガチ現実にオールマイティ、とはできないって話です)
世界は基底を持てない
そして存在への問いに向けて因果律を使っていく方針を放棄したところで、世界の基底となるものを想定するたびに、それがなんであれ自分自身に当てはめることができないと予想されます。「これが世界の基本的なルールだ!」←「そのルールはどんなルールに従うの?」とブッこまれるとどうにもならないからです。
なので、世界の基底を探すことからはいったん撤退し、どういった主張なら矛盾なく存在の問いに向かいあうツールとして使えるのか?それを考えていく必要があります。
ーーー
(おまけ)
ところで今回、因果律、因果律と書いていたら、 今日日のマンガのキャラの名字にいかがですか?って気分になってきました。因果律由衣果、因果律望美、因果律瑚々音。サブキャラですね。