世界はひたすら矛盾しないから、その美しさを語りうるんだぜ
世界はその基本となるルールを定めようがないにもかかわらず、なぜ秩序だった経験が可能なのか?ってネタで、粘り強い思いつきを垂れ流してみたいと思います。
(前回までのあらすじ)因果律はいつでも現実を定める完全な規則ってわけじゃなかったです
ひゃっはぁーッ、この世界にはルールなんてありゃしねえのさ!!
前回は、因果律は世界の始まりで矛盾するので、無条件に現実へあてはめられず、存在の問いへ切り込んでいくツールとしては、ちょっとムリって話を垂れ流しましたよ。
あげくの果てに「じゃあ、なにが世界の基本的なルールなんだよ?」っていうのを定めることもできないって話になりました。だって基本的なルールを言い出すたびに、「そのルールはどんなルールに従うんだよ?」って話になっちゃうからです。
つまり、積極的に「世界を定める何か」を取り出そうとするたびにしくじるわけです。
ですから世界の基礎について「こうである」の語りはできないのです。
であれば、まずはひたすら世界には何がおこっても構わない、くらいの姿勢をスタート地点に置くのはどうでしょう。余計な予断を持たずに、どんなことでも起きる世界からスタートしてみます。
とはいえ、なんでもかんでも起こるのはさすがに困る
しかしですよ、ルールを置かない世界がこんなんだったらどうしましょう?
- 加算とは複数の数をまとめると不定の値になることであり、それが現実ともよく整合する
- 言葉の意味が3秒毎に変わる
- 視界の一つの領域を赤と青が同時に占めている(*パ)
- 「窒素ガスの内角の和は緑である」といった文に意味がある(*パ)
(*パ:ウィトゲンシュタイン、論理哲学論考から劣化パクりました)
カオスですね、めちゃくちゃ困ります。っていうか、こんな世界に産まれても、経験や自意識といったものが生じないのではないでしょうか。
だって経験も、自意識もそれなりの秩序にもとづいているはずだからです。
たとえば私が「この棒は長いなあ」と経験するとき、世界には長さという基準があり、それが比較可能であり、理由もなく変化しないという前提に依存しているはずです。あらゆるものがカオスに堕ちている世界では、そういった前提がなにも成立せず、なにも経験できないことになります。
つまり、私に経験される世界が成り立ちません。
あるいは、自意識と紐づいている肉体(に限らなくてもいいかもですが)もこのようなカオスに巻き込まれているわけですから、”私”を世界から切り出す作業もできないことになります。
つまり、(世界から自分を分離するという意味での)自意識が成り立ちません。
ところが現に私は世界を経験し、キシモトシンジの”私”と紐づいている、キシモトシンジの肉体を世界から分離して認識することができます。
っていうことは、私の経験を観察する限り、世界は無秩序じゃなさそうです。
つまり、因果律が世界の基底ではないにせよ、なんらかのお約束が”世界”や”私”を成立させているようなのです。
さて?
どんなお約束が世界を成り立たせているか?
……さ、さて?これまで、世界の基底は無いと連呼してきたにも関わらず、お約束という言葉を持ち出しやがりました。こんなの低レベルな語の用法の詐欺じゃねえか死ね、死ね、死ね。あわわ、ひい、ああ、でも、ちょっと待ってください、ここまでの話をまとめると
- 世界の基底は無い(因果律も万能ではない)
- つまり世界の基礎に「こうである」の語りはできない
- それでも世界はなんらかのお約束に対応する(から成立可能)
っていうだけです(十分クソ重い棍棒が振り下ろされつつありますけど)。
上記3項(実質2.5項くらいですけど)をどうやってクリアするか?
実は、すでに検討材料は繰り返し登場しているのです。
世界は矛盾しない、あるいは矛盾しない領域までがその内側なのです
また前回の話になっちゃいますが、世界の基底としての因果律を放棄した理由を振り返ってみます。
因果律はなぜダメだったのか?それは因果律が世界の始まりにおいて矛盾したからです。このことから ひるがえって なにが言えるでしょうか?
吐きそうなほどシンプルで当たり前の話ですが、ヒトは事実が矛盾するならばそれを認めず、受け容れず、投げ捨て、思考の系に置かないのです。このことを矛盾する事実は世界を構成できない、とでも呼ぶことにします。
だから、世界に残されるのは矛盾しないものだけです。これを内側の視点から語るとするなら、世界は矛盾しない、あるいは矛盾しない領域までがその内側であるということが言えるはずです。
(ちょっとした補足)
この、矛盾する事実は世界を構成できない、というお約束の由来には2通りの可能性があるのだと思います。
- (可能性1)(ブラックボックスに閉じ込められていて理由はわからないですが)世界の構造そのものが、矛盾しない作りになっている
- (可能性2)ヒトの認知や思考のパターンなり限界が、矛盾を思考の系に組み込めない
直感的には可能性1が正しいような気もしますが、ヒトが認知できる領域には限界もあると思いますので(オカルトやスピリチュアルの話ではない)、どちらが正解というのは判断つきません。上位の知性を持つ宇宙人がやってきて教えてくれない限りは分からないでしょうね。ただ彼らが答えを示してくれても、ヒトがそれを理解できる保証はまったくありませんし、それは彼らの知性の限界にもとづいた答えにすぎないですけどもー
「世界は矛盾しない、あるいは矛盾しない領域までがその内側である」とはどう位置づけられるか?
「世界は矛盾しない、あるいは矛盾しない領域までがその内側である」は因果律の上位に位置づけるべきだと考えています。その理由ですが、
(理由)因果律を否定できているので、因果律よりも上位の(因果律を内包する)概念であるはず。
さんざん語ってきたように因果律は矛盾によって否定されましたが、因果律「全ての出来事には原因がある」を否定しても、「世界は矛盾しない」は否定されません。たとえば「ボウフラだけは発生原因が無い」と因果律に一部破れが見つかった世界をイメージしてみます。この場合でも「なぜボウフラだけは発生原因が無いのか?それは……」に続く適切な説明が矛盾なくできるのであれば、「なるほどね〜」と納得するしかありません(ただコレかなり困難な課題なので簡単には説明ができないとは思いますが、可能性としての話です)。
ところが「世界は矛盾しない」が否定されてしまえば、因果律がなにを説明したところで「どうでもいいよ」と無意味化されてしまいます。だって矛盾を認めていいのであれば、原因と結果に対する説明とか整合性とかもどうでもいいからです。
「世界は矛盾しない、あるいは矛盾しない領域までがその内側である」は、存在の問いに対して問題を引き起こさないのか?
「世界は矛盾しない、あるいは矛盾しない領域までがその内側である」は存在の問いに向かっていくツールとして使えるのか?というそもそも知りたい疑問がありますが、これが最も問題を引き起こさないツールだろうと考えています。その理由は2つあります、
(理由1)「こうである」のアクティブな定義を回避しているので、「なぜ”こうである”のか?」の原因追求が生じない。それは行き止まりである。
まずは表層的な主張をします。「矛盾しない」という形式をとっているので、「***である」という説明を回避できているじゃないですか(といういかにも脆弱そうな主張です)。……そしてこの主張に対するまっとうなお叱りとして、「やはりただの言葉遊びをしているだけでしょ?「矛盾しない」は「矛盾しないに限定するのである」と内容がまったく同じなのだから、こんなの語の用法の詐欺ですよね」と言われてしまえば、ぐうの音も出ないほどその通りです。
次に、本質的な説明いきます。
世界の基礎は「***である」タイプの説明をするとき、「***」がなんであろうとも、それ自体への説明や、根拠の説明がついて回ります(だから破綻します)。
次に「矛盾しない」についてはどうか?矛盾がないこと自体への説明や、根拠の説明が必要なのかもしれません。しかしそれは、それらの説明も矛盾なくされなければならない、という地獄へのドライブです。
「世界は矛盾しない根拠を矛盾なく説明せよ」だ……と???
その問いがまっとうだと主張する根拠がそのまま答えになりますよね。地獄というより、もっと適切な表現は明らかな行き止まりではないかと。(そして行き止まりであることにより、前述の「世界は矛盾しない、あるいは矛盾しない領域までがその内側である」とはどう位置づけられるか?という問いに対して補足することができます。「世界は矛盾しない、あるいは矛盾しない領域までがその内側である」は理解についての最上位です、行き止まりだから。)
(この本質的な説明と、上の表層的な説明は、それなりに紐づいているような直感があるのですが、私のトロい頭ではうまく言葉にできませんです)
このように根拠を語りえないのが自明なので、沈黙するべき領域の問いなのだと思われます。
さらにもうちょっとだけブッこむと、前回は因果律はただの公理なので無条件に現実にあてはめるべきではないとしました。しかし、矛盾するものは世界を構成できないので、むしろ逆に「矛盾しない」は対象が世界に登場して良い条件の側です。(それが世界にあてはめてよいかどうか問われる側ではなく、世界の構成要素が登場可能になる条件の側です)
(理由2)世界が矛盾しないっていうのは、私が世界を認識する最低限の必須事項でしょ?
これは上で説明したことの繰り返しなのですが、世界が矛盾していいなら、少なくとも以下の2つの問題が起こるのですよ
- 現に経験している世界が崩壊する
- 世界の始まりに向かうことができなくなる。世界に矛盾がないことを前提にしないとどこにも進めない。そもそも仮にどこかで「矛盾しない」が崩壊するのであれば、むしろそれがどこであるのかを見極めるのが存在の問いの仕事でしょ?
(「矛盾しない」が崩壊する極限、……私のネタ帳によればコレは前振りである。かなりステップを踏んでから到達する話ですが、、、)
世界はひたすら矛盾しないから、その美しさを語りうるんだぜ
「矛盾しない」が世界やその認識の行き止まりなのですから、
↓のような主張もまた、世界が矛盾しないからこそ語ることができるのです。
本当に関係ないですが、私の知る限りでこの曲を最も上手に悪用したのは(賛辞)、映画の12モンキーズだと思います。