創造を生きるとはどのようなことか?(1)
前回エントリーでは、 私の存在理由っていうのは、生きていく日々を創造しつづけることで世界の存在を表現することだ、とザックリ話させてもらいましたよ。
(ザックリにも程があるくらいのザックリですけども)
では具体的に 日々どのような創造をしていくのか? 今回はそのあたりに触れていきたいと思います。
その前にちょっとだけ、そもそも話に寄り道してから、本題に行きたいと思います。
存在理由から、善いの基準が分かるハズな件
前段として存在理由から善が導かれることを検討しておきますね。つまり物事に善いの基準があるとしたら、それは存在理由から導かれるはずなのです。
たとえばタイヤ、善いタイヤを判定する方法 はなんでしょうか?
タイヤは自転車や自動車を進めるために回転するものですよね。そしてそれぞれの存在理由、たとえば「速く走る」「重いものに耐える」「振動を吸収する」といった要素をどれだけ満たしているのか評価することで、善いタイヤの判断が可能です。
というわけで、(過程はまだぜんぜん示せておりませんが)本ブログでは私の存在理由を「創造によって世界の存在を表現すること」としておりますから、より創造することでより世界の存在を表現する=善い であるはずです。
意志によって世界を選びとるのが善であるのだから、私の世界に登場するキシモトシンジが素朴な連鎖ではない行動をとることが善となるよ
(前回の話→)創造によって世界の存在を表現する。それというのも私の意志がその行く先をねじ曲げないことには、世界はまったく変化しないトートロジーになっちゃうからです(←前回の話)。
で、
これをイメージするには、キシモトシンジから私の意志が切り離された まま(哲学的ゾンビ)、トートロジーの連鎖を続けていく世界 を思い浮かべてみるのが早いと思います。
無意味な事実が連鎖することによっていろいろな事実が起こり続けるでしょうけど、それらは まったく静的なトートロジーです よね。私はなにも考えていないのに、それらしいことを語るキシモトシンジ(というよりキシモトシンジの語りが”それらしい”のかどうかすら私は考えることもない)。
そんなの光景の内側で、自と他の区別が引かれることもなく、ただ一切はただ流れていく無意味な光景。
……そんなの存在していないってことですよね。
だから世界が存在するのであれば、私の意志によって静的なトートロジーの世界とはまったく別の事実が起こる のでなければならないはずです(世界を表現する私はゾンビなんかじゃない!)
よって、キシモトシンジの意志を通じて(いきいきとした存在の表現である)事実を世界に描写し続けることが善であると考えています。逆に言うなら、私が自分の意志を停止させ、すべてを成り行きのままにするのであれば、世界は純粋なトートロジーとなって存在しなくなる のです。
それだとなにか困るの?
「それだとなにか困るの?」……ですって?
いや別に困りませんよ。ただ自らの存在理由から離れるってだけです。
つまり自分の”何者”を失っても、善でなくても、美でなくても、別にいいじゃないんでしょうか?否定しませんよ。
(まさに「別にいいじゃん」に振り切った、原始仏教へのラディカルな現代解釈もあるんじゃないでしょうか)
私は、
私は絶対にイヤですけど。
やはり世界として存在して善であったり、美であったりを一つずつ噛みしめていきたい。そんな衝動に突き動かされているように思うんですよ。
\ ド ー ン /