ウルトラパンク&ポップな実践存在ガイド

世界が在ることを徹底的に破壊した果ての創造を生きよう

「無い」ということの世界への配置と、概念の無について

こんちわ〜す!

 

サンデーうぇぶりのCMで脳みそ夫先生を見ることができて、感激で泣いているキシモトシンジです。周辺の重力が失われる芸風が大好きなんです。

 

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さてさて前回は直接経験できなくても、経験の複合によってそうでなければならないものは、そのように世界に配置しなければならないって話をしましたよ。

ultrapop.hatenablog.com

 

今回はその延長で、なにかが無いってこともやはり経験や経験の複合によって成立しているってことと、それ以前の無についても触れてまいりますわよ。

 

 

日常なにげなく「無い」と言うとき、実は存在の相対的な否定をしてますよ


無いということも対象がそうであることによって世界が成り立ちます。たとえば「ヤマダタカシさんはここにいない」と語る文では、ヤマダタカシさんが、ここにいる/ここにいないについて「いない」が示されていて、そうであれば矛盾なく世界が成り立つと語っているわけです。

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どちらにせよ「ヤマダタカシさん」という概念があったうえで、

  • ヤマダタカシさんが在るのが「プラスのヤマダタカシさん」
  • いないのは「マイナスのヤマダタカシさん」

……という相対的な存在肯定、存在否定をすることになります。

 

つまり私の目の前にヤマダタカシさんがいないのは、ヤマダタカシさんの存在がゼロなのではなく、ヤマダタカシさんの存在がマイナスとなっているわけです。言いかえるなら、積極的に存在を否定しているわけです。
言い換えればヤマダタカシさんという対象を考えることができるし、かつヤマダタカシさんの不在を経験しているのです。

 

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あるいは自然科学への理解が進んだ結果、もしも「実はビッグバンは無かった」と判明したならどうでしょう。もしそうなっても人類の定義したビッグバンの概念は(間違っていたものとして)残るので、ただ相対的に存在否定されるだけですね。私がビッグバン理論を学んだ経験やそれについて語った経験までが無くなるわけではないのです

かつての天動説がまさにそうだったように!

 

存在の相対肯定、相対否定をする前に、対象が概念として成り立っている必要がありますよ

ということで、対象の有無をあーだこーだ言おうとするなら、実は対象の概念が在るのでなければなりません。つまり「そもそもそれは概念が配置されているのか?」ってとこが問われているはずなんです。

 

対象の概念が無かったら、それが在るとも無いともまったく語ることができないですもんね

 

概念が定まらない状態を「概念の無」と呼ぶことにしましょう。上の例でいくと「ヤマダタカシさん」という概念そのものが無く、定義が欠けていることが「概念の無」に相当します。


或る時点でヤマダタカシさんが概念の無であったならば、ヤマダタカシさんが定義されていないので、世界から切り分けることができず世界の成立に関係できない状態 なのです。

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概念が定義されていない対象は、それが無いことすら示せないってことになります。

 

そして対象の概念の成立についての肯定/否定は、絶対的な肯定/否定となります。
概念を否定してしまったら、それ以上なにも否定できないですもんね。

 

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といったところで今回は終わりです。

次回は世界の始まりとは、上のどちらのタイプの無であるべきなのか?って話をしたいと思います。世界の始まりには何もないはず、って話はこちらです。

ultrapop.hatenablog.com

 

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 子どもがスイッチで体験版をダウンロードしたフラットヒーローズ。うーん、楽しい。1200円でダウンロードしちゃおうか思案中です。

ec.nintendo.com

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僕の中の松岡修造が「なんで買わないの?なんで?なんで?はい理由ない!買え!買う!決めた!」と絶叫し始めました。