美しいってこと(先日お見積りさせていただいた「驚術」件、再度のご提案について)
いまさらバンクシーな話で恐縮ですが、、、
しかも、以下にハイテンションで書きなぐったネタの転載です。自分で設定した文字数制限に引っかかって書ききれなかったのと、画像入れたくなったのとでこっちにも書かせてくださいな
じゃあ、いくぜ!
美しいの概念は、驚きに含まれるよ
以前から現代美術というのは、なぜ大喜利みたいなことをしているのか不思議だったんです(あるいは大喜利みたいなもんを現代美術と呼んでいる理由が分からない、ともいう)。だからバンクシーのシュレッダーも良くできた大喜利だなあ、それっぽいよねー。くらいに思っていたわけですよ。
……ところが、すっかり忘れた頃に天啓が降りてきて、急に理解できた!
「美しい」っていうのは驚きの一つなんだな。
咲き乱れる花は美しいよね、……でもそれは驚きを持って解釈するから成り立つのですよ。驚きがなければ、美しさもありませんもん。
存在の問いのように言い表すのであれば、世界に配置された対象の意味(他の対象との関連)が、思いがけず高度に洗練されていたことへの驚きを、美しいと言うわけです。
あるいは或るとき美しかった花壇の花も、毎日通り過ぎて見慣れてしまえば退屈な日常の風景でしかなくなり、それにとともに私にとっての美も失われていくわけですよ(そうそう、キシモトシンジはイデア論者ではないので、美のイデアのようなものは想定していないです)。
さらに逆に言うなら、毎日花を見ている花屋の店員さんが、毎日花を美しいと思えるのはなぜか?というなら、それはあれだよ花を学ぶほど、鮮やかに咲くことへの新鮮な驚きが再生産されるからですね。
人工的な像や絵画にしたって、作家の技芸によって解釈された対象への驚きが美を感じさせているんだろうね。ミロのビーナスやモナリザのモチーフとなった女性に街で出会っても、きっと「ああ、美人だな」って思うだけだもの。作家によって写し取られた作品のように圧倒的な美=驚愕はないでしょ?
美術や芸術が驚きそのものへと還ろうとする
とはいえ、技芸の大半をテクノロジーが代替するようになってしまえば、技巧が担っていた驚きというのは目減りするよね。だって写し取る作業そのものは巨匠の筆によらずとも、大量生産されたCMOSセンサがやってくれるんだもの。
いいかえると像を残す手段が絵画しかない時代には、作品の驚きの一部分を作家の技巧そのものが担っていたんだよね。要は「すげえテクだぜ!」って部分に感動してたってこと。わかりやすいのは「2001年宇宙の旅」の後半部分ですね。宇宙飛行士が上位の体験へと移行するシーンを不思議な映像の連続で表現しているんだけど、CGに慣れた21世紀に観ると地獄のように退屈だからな!(前述の花壇の花と同じコト)
となると、美術や芸術と呼ばれるジャンルは、より直接的に驚きそのものを表現していくしかないんでしょうね。
そりゃシュレッダーされちゃうこともあるだろうな、と。
美の驚きが大喜利と見分けがつかないとしても、それはそれで創造的であって価値のあるものだと思いますよ。根っこの創造性というのは、それによって損なわれるものではないし、創造性によって驚きが生まれ、それを美と呼ぶこともまったく正しいと思うわけです。
こうやって解釈していくなら、現代美術のツイッターが「コンテキスト」とおっしゃるのも分かる気がする。文脈を踏まえたうえで、その先を行ったり、流れを捻じ曲げたりすることへの驚きというのも当然ありますもんね。ただまあ、現代美術のコンテキスト&驚きは、私の生のコンテキスト&驚きと重複する部分が少なそうですけども〜
……といったことを踏まえると問題が発生するわよ。「どんなコンテキストが人類にとって真っ当かつ重要なのか?それをどうやって判断すればいいの?」
これは多数決で決める問題ではないんだけど、似たような決め方=「地位のゲーム」で決めているんだと思いますよ。まるでサル山のボスを決めるゲームがサルにとって重要であるように、ヒトにとっても地位のゲームって大事。この話はクソ長くなるので、ある芸術家にふれて終わりたいです。
海原雄山がいきなりキレたあと、相手をなじりまくるのは美味しさだってそのコンテキストが地位のゲームによって定まるからです。はてな的にいえばマウンティングでしょうか。自分の地位を高くみせてコンテキストの決定権をとり、都合よく決めたコンテキストは自分の正しさ(≒地位)を保証する、そんな一種のマッチポンプで錯覚資産を増やして(←言いたいだけ)いくんですね。
そういったコンテキストをめぐる地位のゲームはくだらないですが、ヒトにとってとても重要ですね。だってヒトはくだらない生き物ですから。
それでもやはり驚きは創造だ
美や驚きがくだらないゲームに左右されがちなのだとしても、それそのものの意味というのはやはり在るわけです。美=「世界に配置された対象の意味(他の対象との関連)が、思いがけず高度に洗練されていたことへの驚き」というのが受け手である私の創造性によるものであるのか?あるいは私そのものがそのように美しい世界の創造であるのか?そのあたりは存在の問いと密接に関係していますが、どちらにせよ私は私の存在理由を世界が存在することを表現する創造だと考えているので、やはり至上の善であるのだと思うわけです。
導かれし者たち、そして驚術へ
というわけで美術の美が驚きであること、芸術の芸がテクノロジーに代替されていくことなど考えれば、それらの定義は驚きの術=「驚術」として改められたほうが広く理解されやすくなるんじゃねえの?と思ったりするわけです。
バンクシーが何をしたのか?グッとくるようになるでしょ?
……ははは!概念に名をつけることも、コンテキストや地位のゲームなのだからこの提案が認められることはないけどな!
というわけで、現代美術、現代芸術っぽいネタがバズったとき、少なくとも僕はそれを「驚術」と認識してコンテキストを追ってみたいと思います!
世界はクッソ美しくて、ワクワクしちゃうんだからな!