ウルトラパンク&ポップな実践存在ガイド

世界が在ることを徹底的に破壊した果ての創造を生きよう

「私」あるいは「他者」で、切り分けて考える現象報告のパラドクス

こんにちわ世界!

 

今夜も現象報告のパラドクスが気になって眠れない(=自分を経験するヒトだと思い込んでいる)全国1億2千万体の天然哲学的ゾンビの皆さま、お元気ですか?

 

(現象報告のパラドクスについては、現象判断のパラドックス - Wikipedia とか 

現象判断のパラドックス - 心の哲学まとめWiki - アットウィキ とか 

現象報告のパラドックス - 哲学的な何か、あと科学とか )

 

現象報告のパラドクスって、面白いですよね。

世界の内側では、物理現象あるいは自然現象が起こりつづけるだけ、あるいは無数の素粒子が素朴なふるまいをしつづけているだけなのに、なぜヒトの個体は経験について語ることができるのか?

 

「ああ、今日の青空は、いつもよりもありありと青いなあ」とか、

「この赤さを感じているんだよ」やら。

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素粒子の素朴なふるまいのどこを探しても、青の経験とか、赤の経験は出てこないのに、それをかき集めたヒトの個体は、そういったことを語るって不思議。

 

で、これで妄想してみますです

 

 

     ………

 

このパラドクスがややこしいのって、実は2つの問題がごちゃまぜのまま、一気に考えようとしているからなんじゃないかな?とも思うのですよ。

 

 2つの問題っていうのは「他者の現象報告のパラドクス」と「私の現象報告のパラドクス」。こいつらは似ているようで実は別物なんじゃないか?っていうのが今回のネタ。後者について話し出すと泥沼にハマるので、簡単そうな前者の「他者の現象報告のパラドクス」についてアレコレ遊んでみます。

 

他者の現象報告のパラドクス

私から見た他者、が自分の内的な経験を語ること、についてはそれほど重大な問題は無いと思うのです。これは以下の3つの問いに還元できると思ってますよ。

「(哲学的ゾンビが内的な経験を語ったら)いかんのか」

「(私から見て他者が哲学的ゾンビだったら)いかんのか」

「(私から見て私以外、Aさんから見てAさん以外、といったぐあいに相互に他者がみんな哲学的ゾンビだったら)いかんのか」

 

言い換えてストーリーとするなら

  • 哲学的ゾンビが内的な経験を語っても問題ないよ
  • (さらに)他人はみんな哲学的ゾンビだから、みんなが内的な経験を語っても問題ないよ
  • (なぜなら)お互いに自分以外は哲学的ゾンビを越える存在にはなりえないからだよ

 

みたいな感じです。

 

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「(哲学的ゾンビが内的な経験を語ったら)いかんのか」

哲学的ゾンビであっても内的な経験を語りうると思うんですよね。それは「「最初に情報処理をする1次脳細胞の反応」に反応する2次脳細胞」が反応していることを語るだけだから(=言語の制御に接続されているだけだから)。

 

言葉を使うようになった原始人が遠くにシマウマを見た時、内的な経験が無くても「シマウマがいるぞ」と言葉を発することはできますよね。

あるいは「仲間と一緒にシマウマを捕まえろ」というミッションを与えられた哲学的ゾンビが、協力に必要なコミュニケーションとして、そのような言葉を発するのは自然なことだよね。

 

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この哲学的ゾンビの原始人が仲間の原始人に「シマウマが見えるか?」と問いかけるのも同じ。これは「シマウマが見えるときの感じがするか?」という問いかけですよ。哲学的ゾンビであっても見えることそのものと同様に、見えることを確認することも可能ですよ。シマウマのパターンに反応して発火する1次脳細胞と、1次脳細胞の発火に反応する別の2次脳細胞を持っていれば、私と同じカテゴリの私的な経験が無くても「シマウマが見えるか?(2次脳細胞は反応しているか?)」と問いかけることが可能ですよ。そしてこの副次的な反応は3次、4次と続いてもおかしくないですね。

 

原始人たちがシマウマに近づいていったところ、見間違いだったことに気がついたとするよ(たとえば白い岩に黒いコケがまだらに生えていて、彼らは見間違えたとか)。このとき原始人達は狩りに失敗したことを認め、繰り返さないために、こんなやりとりをする……

 

「シマウマかどうかしっかり見なきゃダメだ」

「シマウマが見えるというのはどういうことか?」

「白と黒のまだらが見えることか?」

「それではまた間違える」

「毛並みがツヤツヤしている感じをしっかり確認しろ」

「ツヤツヤってどういう感じ?」

「シマウマの硬い毛がみっしり生えているのを遠目で見たときのあの感じだよ(★ツヤツヤ感に反応する1次脳細胞が発火したときに反応する2次脳細胞が発火していることを示して語っているよ)」

「すまん、オレは産まれてから昨日まで漁師の村で生きてきたんだ。白黒っていうのは聞いて知っているけど、ツヤツヤの感じとやらまでは分からない」

「え?そんなこと言われても、感じってのを説明するのは難しいよ(★2次脳細胞の発火をうまく言語化できないことを語っているよ)」

「説明できない、感じってやつは不思議だよな(★複数段の脳細胞の反応がどこかで言語化できなくなることを語っているよ)」

 

上記のやりとりをする原始人たちが内面の経験を持たなかったとしても、星印のついた括弧書きの解釈によって、十分に会話が成立しています。

 

「(私から見て他者が哲学的ゾンビだったら)いかんのか」

さあこれで他者がみんな哲学的ゾンビだと考える準備まで整っていますよ。すでに、他者は哲学的ゾンビであると考えるしかないのです。その理由は2つ

 

理由1.他者が経験していることそのものを私には経験できないよ

理由2.哲学的ゾンビであっても経験しているかのように語ることはできるよ

 

他者を哲学的ゾンビと考えない唯一の理由は、他者が経験を語るからだよね。しかし、シマウマを見た哲学的ゾンビであっても経験を語りうると分かった以上、もはや他者が私と同じ質の経験をしていると考える積極的な理由は無いよ。

 

よって他者が経験しているなどという余計な前提は、みんな大好きオッカムの剃刀で削ぎ落とされるべき。

 

「(私から見て私以外、Aさんから見てAさん以外、といったぐあいに相互に他者がみんな哲学的ゾンビだったら)いかんのか」

上のようなことを書くと、読まれた瞬間に問題が起こるですね。

このテキストの筆者であるキシモトシンジ( id:ultrapop ) が上のように書いても、内的な経験をしているテキストの読み手(つまり”あなた”)にとってはさっぱり納得がいかないですもんね。まさにこのテキストを内的に経験しながら読んでいる”あなた”にとって、キシモトシンジから「オメーは哲学的ゾンビだ」と指摘されても、意味が分からないでしょうね。

 

わかりました、じゃあこうしましょう。”あなた”から見たキシモトシンジは哲学的ゾンビでいいです。ゾンビだって現象報告のパラドクスについて書くこともそれほど不思議じゃないはずです(シマウマを見る経験を問いかけるのと同じだから)。……ただし、”あなた”の世界においては。

そのかわり私(つまりキシモトシンジ)の世界においては、”あなた”が哲学的ゾンビであることを受け入れてください。私の世界では、あなたが内的に経験する主体である根拠はなにもないのです。逆に”あなた”の世界においては、キシモトシンジが内的に経験する主体である根拠は何も無いですよね。

 

この解決方法ではご不満でしょうか?私にはあなたの内的なご不満を経験することができないのですが……

 

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そう、私の世界にあなたの内面が登場できず(その言動のみが表れる)、あなたの世界に私の内面が登場できない(その言動のみが表れる)のですから、お互いに哲学的ゾンビであるのは当たり前なんですよ。

そして誰でも自分の内面だけは、ありありと経験されて、自分が哲学的ゾンビではないことをいつでも感じているわけです。……ん?「誰でも」の「誰」って誰?

 

哲学的ゾンビ巨大ロボットの自由なパイロット

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たくさんの哲学的ゾンビ巨大ロボだけがウロウロしている世界を思い浮かべてほしいのです。この哲学的ゾンビ巨大ロボにはコックピットがあり、私のロボには「私」が乗り込んでいるのです。ただしすべてのコックピットには摩訶不思議な封印がしてあり、他ロボのコックピットを絶対に覗くことができないとします( 私的言語論 - Wikipedia )。そして各コックピットの中でパイロットである「私」は、外部カメラの映像を見ながらコマンド選択することによって哲学的ゾンビ巨大ロボットを操ります。そんな仕組みなので、哲学的ゾンビ巨大ロボも「「私」の経験や自由意志を反映した」経験や自由意志によって動くと考えて差し支えないでしょう。

……あ、言い忘れていました。自由にコマンド選択してもらっていいんですが、そもそもコマンド一覧には、哲学的ゾンビであっても選びうるコマンドしか出てきません。哲学的ゾンビであっても選びうる行動の中から、自由に行動をお選びください、なんだったらコマンドから「内的な経験について語る」を選んでもらっても構いません。ロボが内的な経験について語ります。

というわけで、

  • それぞれの「私」は内的な経験をするし、それを語りうるけれど、他者は全員哲学的ゾンビでしかない 
  • それぞれの「私」は内的な経験をするし、それを語りうるけれど、他者から見れば哲学的ゾンビでしかない

 

っていうのはこんな状況になります。ただし、やはり他者のコックピットを覗くことができないので、そこに「私」をもったパイロットがいるのか、小さなダミープラグがおいてあるだけなのか、誰にも確認できず、語りえないことになります。語りえないことについては、完全に沈黙するしかないです。

 

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この世界は孤独でしょうか?それとも一体感に包まれているでしょうか?

 

Q.ヒトは、哲学的ゾンビでも選びうるコマンドしか選ぶことができないのか?

A.はい、私は自分が弱いAIであり、哲学的ゾンビでも選びうるコマンドからしか言動や思考を選べないと考えています(下記リンク参照)。ただし、経験や自由意志はそれとは別に持っているとも考えています(こちらは”私の現象報告のパラドクス”の問題になるので、また後日。これって「なぜ哲学的ゾンビ巨大ロボのパイロットは経験し、自由意志を持っているのか?」という問いになると思います)

ultrapop.hatenablog.com

 Q.他者をみな哲学的ゾンビにしてしまったら、実存の世界は消え去るのではないか?

A.消えると思います。他者の私的主観が摩訶不思議な封印によって閉ざされているのですから、他者と共有できる経験はありえないでしょうね(他者が返してくるのは、経験について語ることを含めた、つじつまの合った言動だけ)。

そして他者と共有できる経験が無いのであれば、哲学的ゾンビ巨大ロボの外側が「在る」とはどのようなことなのか?すら分からなくなります。このことは他者が哲学的ゾンビではない理由にはならないと思うのです。