ウルトラパンク&ポップな実践存在ガイド

世界が在ることを徹底的に破壊した果ての創造を生きよう

なぜ存在の問いは最凶の問いなのか

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 ブラックジャックによろしく 佐藤秀峰

 

前回 ↓ は存在の問いが、最も強い最強の問いだと訴えてみました。

ultrapop.hatenablog.com

しかし存在の問いは、最強の問いであるのと同時に、最も呪われた甘美な問いでもあるのです。

それはなぜか? 

存在の問いが、解けないからです。

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ウィトゲンシュタイン論理哲学論考には大オチで「語りえないことについては沈黙するほかない」と宣告されたこの問いですが、このブログ前回エントリを引きつぐなら「問いが究極すぎて、前提が存在しないから。前提の存在しない問いには答えようがない」と示すことになります。

つまり前提を置くことのできない問いは、解明できないのです。

では、どうやって存在の問いに対峙すればいいんでしょうか? 

 

存在の問いについては、矛盾しないように等価回路を描写することになります

存在の問いは解明できないので、放棄するしかないのでしょうか?……いいえ、もちろんそんなことはありません。解明できなくても、なにかが存在していることをいくらでも経験することができますし、存在に関係する各種の事実(世界、経験、意志、私、などなど)が結ばれている関係について考えることもできます。

 

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なので中の見えないブラックボックスに入った電子回路を解析するときに、入力した電流や電圧に対して出力される値から等価回路を描写するのと同じアプローチをとることができます。外部からは100オームの抵抗となっているブラックボックスがあったとして、内部的に200オームの抵抗が2つ並列に入っているのか?それとも50オームの抵抗が2つ直列につながっているのか?……ほとんどの場合、どちらでもいいですもんね。

存在の問いについても、同じことが言えます。存在の神秘はブラックボックスに閉じ込められていますが、やはりそれは経験できるという形で入出力を持っています。内部がなんであろうと、必要なのは汎用的な入出力であるはずです。

(ここでもうちょっとだけ踏み込んだ話。電子回路ならば中身を見る可能性があるので、内部的に完全な解析をすることにはそれなりに意味があります。しかし存在の問いのブラックボックスは絶対に開かないがゆえに、完全な解析には意味が無いと思われます。っていうか、完全な解析ができていたとしてもそれを知ることはないのです)

 

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そして、存在の問いのブラックボックスを検討するために必要な入力や出力は、とても身近なところにありふれています。たとえば

  • 「世界が存在すること」
  • 「事物のふるまいが規則正しいこと」
  • 「私が存在すること」
  • 「経験すること」
  • 「意志が働くこと」
  • そしてこれらを「自覚できること」

……などなどです。これらの材料を使って、存在のブラックボックスの入出力が矛盾無いように記述できる描写をしていけばいいはずです。

こういったありうるかぎりの入出力すべてが矛盾しないのであれば、まさに内部の解析ができないことによって、それは正しい描写であることになります。(「ありうるかぎり」というのが、どうしても「現時点での検討材料において」を前提しているので、その点だけは注意が必要です)

 

存在の問いに対峙するのはつらみがやばたにえん 

 存在の問いを考えていく材料については見えてきましたが、しかしこれを解くのはとても大変です。だって部分解がありえないから。

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前提のある問いであれば、大きな問題を細かく分解した個々の答えを組み合わせることができるはずです。なぜなら個々の問題にはそれぞれの前提があるはずだから。

しかし存在の問いには前提がないので、 個別の前提から得られた小さな答えのパーツをかき集めて、正しく配置するというアプローチでは組み立てられないのです。そうではなくて、

  • 個々の材料のすべてが一度に解決するであろう方針を立てる
  • 方針が間違っていないか、チェックしまくる(ダメなら方針からやりなおし)

といった作業を続けることになります。コレ、さらっと2つ箇条書きにしましたけど、(無能な私にとっては)膨大な集中力、思考力を注ぎ込む必要のある、メチャクチャめんどうな作業です。

しかも、これ進捗がよく分からないのです。方針を思いつく&チェック不合格なら廃棄、の繰り返しなので、ゴールがどこにあるのかわからないからです。五里霧中ですね。

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さらに存在の問いは「私」「他者」「主客」といった問題も密接に関係してくるため、偉大な先人が残してくださった膨大なアイデアをそのまま使っていいのかどうかもよくわからないっていう問題もあります(ちょっと脱線しますが私は仏教の「仏に逢うては仏を殺し……」はこの問題についての語りだと解釈していたりします)。だから夏休みのドリルを何ページ進めた、終わらせた、といった進み具合の把握はできないのです。

 

しかしそれでもサイコーだ

それでもなお、存在の問いと向き合うことを止められない理由、それはとても楽しいから。この問いに浸っているときは、煩わしいことから解放され、自由に思考の蜜を泳いでいることができるからです。

 

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この問いが幸福なのは、フローの条件を満たしているからだと考えています。

特に下記項8、"活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。" というのは、存在の問いに向き合うとき「それが空虚な自慰である」と捉えるのか?あるいは「もっとも重要な対峙である」と考えるのかで変わってきます。私は過去のエントリで触れたように後者であると捉えています。存在の問いが現実的にどのように重要で、本質的な価値を持つのか?については、後日書きますね。

 

フロー (心理学) - Wikipedia

  1. 明確な目的(予想と法則が認識できる)
  2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
  3. 自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合。
  4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
  5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
  6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
  7. 状況や活動を自分で制御している感覚。
  8. 活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。