創造によって存在を表現すること:私の存在理由
先の見えない話を延々とするのもナンジャラホイなので、ゴールを表明する流れの続きです。
前回のエントリでは、存在の問いに応えることで「私の存在理由」が示されるとしました。
ここで私の考えている私の存在理由を語っておきたいと思います。
私の存在理由が創造であること
というわけで結論からいきます、私の存在理由は、
「創造によって世界の存在を表現すること」
だと考えています。
といっても、絵かきや音楽家になるべし、という話では全然なかったりします(あるいは宇宙に光をもたらす神になる必要もありません)。
ただ、生きていく日常において創造的な選択をしつづけて、より上位の創造を生きていくこと、それによって 存在するともしないとも定まらない世界の存在を表現すること、ただそれが私の存在理由だという話です。
誤解の無いように書いておきますが、なにもスピリっちゃうつもりもありませんし、引き寄せたりもませんからね。
いたって当たり前の話を、ひたすら掘り下げるだけです(迫真
ただ、西田幾多郎や鈴木大拙、あるいは道元を通じて(理解しているとは言ってない)ひじょーに広い意味での、禅仏教徒であるとは思います。(そうそう、はてなブログで似たような感じのブログを拝見していますが、思っていた以上に似た感じの意見を表明されている方がいらっしゃるなと思っています。仲良くしてくださいネ。意見が違っていても、それはそれで善いですもんね)
宇宙を凹ます
この「創造によって世界の存在を表現する」を、有名な禅仏教徒が別の言いかたで表現されていましたね。
宇宙を凹ます 。
Make a dent in the Universe.
さすがジョブズ、こっちのほうがアッサリと核心をついていると思います。ただ予備知識ナシだと何を言っているのかまったく分からないっていうのが難点です。
創造とはなにか
何もしなければ、ただ起きて当たり前の事実がひたすら起きるだけの、誰にも経験されない無意味な事実が連鎖するだけのトートロジーである世界。
それは何も起こっていない世界であり、存在しないのと同じじゃないですか。
しかし、その行き先をねじ曲げて、何かが起こった世界として描写してやること。そうやって何が起きても矛盾せず、基本的な規則によって存在する世界を示すこと、そいつができるのは、当たり前の事実ではない私の意志だけなのですよ。
だからスピリチュアルじゃないですってば!
しつこいですが、スピとか引き寄せとカンチガイされないようにクドクド書きますが、例えばナポレオン・ヒルさんの「思考は現実化する」という著作があります。めちゃくちゃ長い期間に渡って売れてますよね、古典と言ってもいいかもしれません。
ところで思考って現実化するんでしょうか?……しますよね、そりゃそうだ。私が左手の指を一本立てようと思考すれば、左手の指が一本立ちますもん。
BUT , いやしかし、でもそうは言ってもですよ、毎朝「ビッグになりてえ」とでかい声で自分に言い聞かせたところで、宇宙の謎エネルギーが自分に注ぎ込まれて、摩訶不思議なパワーが助けてくれる、わ け が な い で す よ ね 。
(脳の活動パターンが変化して、できなかった努力に踏み込めるようになったり、むしろ幸福感が生じだすなどで、行動に正のループが生じることを否定する気はありませんけども)
ですから宇宙に衝撃を与えられるのは、私の行動が自然科学と矛盾せず影響を与えられる範囲までです。たったそれだけですが、それが全てでもあります。
存在理由と創造が一致するに至るまで(超ざっくり)
存在理由=創造を語りきろうとすると、ネタ帳を垂れ流すだけでもけっこうなボリュームになるので、今回はザックリ概要だけ。
世界と私は一致しますよ
世界は互いに矛盾しない事実の集積で、事実が矛盾しないことは私の経験にのみ表われ、事実と経験を分離できないからです(スイマセン、何を言っているのか、サッパリ分からないでしょうね)
世界は存在するのでも、しないのでもないですよ
私の世界を展開する世界の始まりでは、論理が破綻しちゃうのですよ(スイマセン、何を言っているのか、サッパリ分からないでしょうね。)。私の世界がその始まりで論理が破綻するのですから、現に私の世界が存在することが何に依るのかを論理的に取り扱うことができません(スイマセンry) 。よって私の世界は存在するともしないとも定まりません。
しかしどうやら、私は存在を表現するようなのです
私の世界が存在するかどうかは定まりませんが、私は存在を表現するようなのです。だって、私の世界は(まさにこのように!)存在が描写されていますもの。
っていうか世界が存在するかしないのか定まらないのであれば、「世界は存在しないのではない」の可能性も可能でなければならないはずです。そして私は現にそれを引き受けているようなのです。
しかし私の世界は、起こるべきことがひたすら起こるだけなので、存在を表現しないはずですよ。
起きた事実は当然起こるはずだった事実ですし、起こるはずの事実は必ず起こります。確率的な事実であっても、それが起こるなら確率的に起こり、統計的に取り扱えるだけです。
起こることが起こるだけの世界では、何の存在も表現されないですよ。そんなの純粋なトートロジーに過ぎないのですから、世界はなにも変化してないのと同じですもんね。(スイマセン、何を言っているのか、サッパリ分からないでしょうね。)
だから世界の内側に属さない私の意志によって、存在を表現することになるわけですよ
私の意志によってしか生じない事実を、私の行動として選びとり、私の経験に描写してやるのですよ(スイマセン、何を言っているのか、サッパリ分からないでしょうね。)
私の意志によって世界の行く先をねじ曲げ、宇宙を凹まし、衝撃を与えてやることとなります。
ブチかませーーー!
クソッタレェェェーーーッ!
(この後は文字が乱れていて読めない。著者は翌朝、自宅の庭で死んでいるのが見つかった。二階自室の窓が内側から破られており、本人がなんらかの事情で飛び出して落ちたものと思われる)
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意志によって世界の行先をねじ曲げてやること、その先には倫理の問いがあります
というわけで、世界の存在を表現するのが私の存在理由であること、そしてそれには意志によって世界の行く先をねじ曲げてやる必要がある、って話でした。そしてこれは倫理の問いへと繋がっていく(というか、重なっていく)ので、それは次回に!
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キシモトシンジさんったら、PUBGの合間にこのブログを書いています。
1回遊ぶとFPS酔いで寝込むので、なかなかブログが進みません。