存在の問いはどのように重要で、本質的な価値を持つのか?
そろそろ夏休みですが、みなさんのご予定はいかがでしょうか?私は予定ありません。私と同じ境遇の方、夏は喫茶店でグダグダ考えごとを旅することとしましょう(お誘い
今回は存在の問いに応えを与えることが、どのように重要で、本質的な価値を持つのかについて、未成年と飲酒して謹慎中のヒマな時間で書きたいと思います。まず存在の問いはどのように位置づけられるのか?以前のエントリを振り返っておきます。
存在の問いは前提の問いですが、そうじゃないアプローチをとるべき問いもあるよ
存在の問いは究極の一般性を持っているので、そもそもを繰り返すとかならず行き着く問いでした。
そして思考可能なあらゆる対象はそれが存在することを前提としているので、存在の問いに応えることは、あらゆる問いに前提を与えることとなります。というわけで、そもそもを繰り返すことでしか答えられない問いにはとても有効です。
しかしあらゆる問いには前提があるとはいえ、存在の問いにも不得意な分野があるように見えます(科学とかバンバン進歩しているじゃん)。これには3つの理由があると考えられます
理由1:そもそもまだ問いに応えが与えられていないし、どこまでいっても解明するという形式で問いに答えられないですよ
存在の問いには、等価回路を描写することでしか応えを与えられないので、解明された答えとはならないのです。あくまで汎用性のある入出力のパターンが得られるだけです。そして統一見解としての等価回路はまだ描写されていません。
そして誰もが共有できる明確な結論は得られないないように思えます。前提を突き詰めた結果、或る人には受け入れがたいものになってしまう可能性も十分にあるはずです。そもそも新しい等価回路が見つかったとして、古い等価回路からすぐに切り替えられる人というのは、人類の何パーセントいるのでしょうか?
理由2:(前提を問わなくても)世界が矛盾しないことから生じるパターンから答えを導くべき問いもある
これは自然科学一般ですね。世界が矛盾しないがために、木から離れたリンゴが毎回地面に落ちるパターンが生じます。人はそれを観察することで万有引力の法則を見出し、生活の向上などに反映してきました。すでに相対性理論や量子力学ですら、基礎的な発見から数十年のうちに実用化されるという壮絶な時代を生きています。
理由3:前提を人工的に設置して、矛盾しない前提のパターンから答えを導き出すべき問いもある
これは数学ですね。基本的な公理を設定し、そこから展開するパターンが何を語るのかを見出す問いです。そしてそのパターンが世界の事実のパターンと近いふるまいであればなおのこと良しですね。
……というわけで以上3点が、存在の問いが不得意な分野を持つ理由です。ただしちょっとだけ補足しておくと、自然科学にせよ、数学にせよ「それがなぜ現に生じる事実とよく一致するのか?」については答えられないはずです。
探求のスタートがどこかで「現に生じたパターンの観察」となり、どうしてもそれに内包されて出られないはずだからです。(「ビッグバンの元となった宇宙は*次元である」とかの物理学であっても、やはりこの宇宙への観察と、適用して良いと判断した数学の適用の結果、のはずなので同じだと思いますが違っていたらスイマセン)
ですから、やはりそれらの学問も、いつか存在の問いと合流するはずです。「そういったパターンはなぜ生じ、人は観察しうるのか?」という問いに至ってしまえば、存在の問いに引きずり込まれるからです。
存在の問いは何に応えるか
では逆に、存在の問いは何が得意なのでしょうか?それはもう「存在するとはどういうことか?」という問いへの応えを前提とする問いの全てです。
「存在するとはどういうことか?」に一般的な答えが得られれば「なぜ私が存在しているのか?」にも答えられます。それは「”なんのために”、”どういった目的で”私が存在しているのか?」を導き出し、それは「私のやるべきこと」に答えを示すことになります。
倫理について
「私のやるべきこと」が定まれば、「善と悪」が定まります(ざっくり、やるべきことが善で、やるべきでないことが悪であるはずです)。お腹を空かせて困っている人に、魚をあげるべきか、釣り方を教えてあげるべきか、はたまた無視するか、罵倒するべきか、……こういった問題に一般的な答えとその理由を与えることができます。これは倫理や道徳の大半の領域の解決を導きます(ひょっとしたらゴールが見出されるというだけで、そこへと至る道が見つかるわけじゃないのかもしれませんが)。
美について
あるいは「存在するとはどういうことか?」に一般的な答えが得られれば「なぜ世界が存在しているのか?」を通じて「美とはなにか?」を問うことができます。世界の存在理由を知ることで、善い世界の在るべき姿が分かるからです(在るべき姿と、美をリンクする方法については一考が必要となるのかもしれませんが)
自らの存在理由を問うこと、について
なお、人類がこういった「自らの存在理由」へと収束する問いを続けてきた理由についての見解は、本ブログの最初のエントリで触れています。結論は「人は、自分の能力の限界と最も上位の課題が一致するので、自分が何をするべきなのか理解できない」からです。
そして具体的な価値について
自分の存在理由が分からないのは、迷いの原因ですよね。
お腹を空かせて困っている人に出会ってしまって、魚を与えればいいのか?釣り方を教えてあげればいいのか?その選択が結果的に不幸を招いたらどうしよう?何があっても結局は迷います。しかし存在理由を最上位から理解しているのであれば、結果がどうあれ迷いも後悔も生じないんじゃないでしょうか。
あるいは苦しみですね。自分の存在理由が分からなければ、苦しみは(悪い意味で)それそのものとして根源的な実体があるかのように直截に私を包みこみます。それが大量になれば、世界とは苦しみになってしまいます。
しかし、自分の存在理由を受け容れているのであれば、苦しみとは存在理由から位置づけられる、ひとつの事態、感覚、機能に過ぎないものとなります。それが絶対的なものでないと認識できるのであれば、それに囚われ、包み込まれ、そんなものにこちらから実体を与えてしまうような間違いを犯さずにすむことができるはずです。
といったところを踏まえて、次回のエントリでは、「なぜ私や世界が存在しているのか?」について、一足飛びとなりますが私の考えている結論を書くつもりです。お手すきのときにでも読んでいただければ幸いです。
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2018.7.2 追記 書きました