表現の不自由展、私的まとめから、中くらいの神話の終わり
はい、こんにちわ
お盆休みに入って、ちょっと時間のできたキシモトシンジです。
さてさてイロイロが出揃ってきた感がありますが、表現の不自由展についてのまとめブックマークを tagtory に作ってみました。あくまで、個人的なレーダーに入ってきたページが中心です。ネットには膨大な記事があるので、ごく一部しか拾えてません。だれか手伝ってー
さてさて、なんでこんなまとめを作ってみたかというと、個人的に一連の出来事からかなりの虚無感があったからですね。
「釜の底が抜けた」ような感覚。
この辺の感じを説明するには、私の前提を示しておいたほうが良さそうであります。
【前提】
キシモトは社会的なナニガシについて、サピエンス全史の影響を強く受けています。つまり
芸術でも、社会でも、宗教でも、政治でも、人が集まってこしらえる幻想って虚構だよね、の視点。
でもでも、虚構だから価値が無い、のではないというのはサピ全をまともに読まれた方であればご理解いただけるかと。
そうそう、キシモトの歪んだ美術芸術観については、こちらの記事がご参考
↑ 存在の問題において創造こそが価値を持つので、美術が大喜利と見分けのつかないものになっても正しいよね、みたいな。
……というキシモトシンジですが、今回の表現の不自由展にまつわるエトセトラを見聞きし、心の中に現れたのは、、、
「ドーデモヨクネ〜、ドーデモヨクネ〜、ドーデモヨクネ〜、」と轟音を立てる破砕機が美術、歴史、宗教、政治といった虚構を砕いて無のブラックホールへと吸い込んでいく光景、
そんな心象風景。
なんでそんな光景を見てしまったのか?いったん tagtory を挟んで、妄想していきます(下に続く
(そうか、外部埋め込みだとハッシュタグが機能しないですね。本体に飛んでいただければ、ハッシュタグで整理された状態になります)
(つづき)
私たちが虚構を使いこなすこと自体はまっとうな話なわけです。それによって豊かな文化はもちろん、強固な連帯感、他者への思いやりなどを育むことだってできるんですもんね。
虚構は互いに絡み合い、私たちの社会を形作ってくれますよね。
同種の虚構は結びついて一つの意味を構築しますし、逆に相反する虚構であっても反発力が互いに支え合う形となって、一つの軸を構築することができるわけです。
そうやって日本の文化、遠近法を伴った歴史、そして芸術というのを形作っていけるわけで。
などと思っていた時期もありました。。。
今回のイロイロを見聞きして、正直な感想は、
今回はなにも噛み合ってないですよね、
まるで排水溝に詰まっているゴミの塊が、ちょいちょいと突いてみたらあっさり崩れて、無関係なソレゾレに別れて下水へと消えていったような感じ。そうそう、釜の底が抜けて、破砕機がアレコレをブラックホールへ放り込んでいく感覚。
虚構じゃなくて空虚
新しい大きな物語と、中くらいの神話の終わり
とかなんとか妄想しているうちに良いフレーズを思いつきましたよ。
「中くらいの神話の終わり」……どやっ!
もちろん「大きな物語の終わり」のパクリだぞ。
……「大きな物語」については各自ググっていただくとして。
サピエンス全史の文脈に沿ってよくよく考えたら、大きな物語は終わってないのですね。
それは新しい大きな物語(神話)=民主主義、主権在民、平等、健康で豊かな生活、などなどに差し替えられわけで。(もちろん私たちは新しい大きな物語の真ん中を生きているので自覚するのが困難)
しかし旧い大きな物語であろうと、新しい大きな物語であろうとソレが完全であることなどありえないですね。虚構なんだから。
さらには、諸事情で物語を移行したくない人がいるという問題も。
じゃあ、どうするか?物語の不備を覆い隠し、
・熱狂によって新しい物語へ突き進むための中くらいの神話
・逆の熱で旧い物語を守るための中くらいの神話
が必要となったわけです。
それらは熱狂であることが重要で、物語本体との整合性はどうでもいい(と今回みごとに可視化された)。
なので、「中くらいの神話」が空っぽで支離滅裂なのも仕方がないわけです。むしろ「大きな物語」の矛盾を引き受けるために産まれたと言ってもいいでしょう。
中くらいの神話が生成したり崩壊する条件などは面白いテーマだと思いますが、うだうだ考えないと進まないので、また後日。
とはいえ、中くらいの神話が適正に崩壊してくれたおかげで、大きな物語本体はまったく傷ついていないんじゃないかな?とも思うわけです。
いやー人類はおもしろいことしますね。