脳と事実の一致について、のつづき
おひさしぶりです、ブログをサボる男キシモトシンジです。
キシモトのエントリーもレアになってしまったので、これを目にした方はかなりの運の持ち主!きっと素敵なことがあるに違いありません。
さてさて、今回は存在の問いの続きで行きまーす!
えーっと10月の終わりのエントリーなので、だれも覚えていないと思いますのでざっくりと振り返りから
1.世界の始まりは概念の無になるはずだけど、そんなもんワケワカラン。なので世界の側からその始まりに接近したいです。
2.そのためにも世界を正しく定義したい。
3.世界とは私の経験とそこから導かれるすべてなので、脳細胞が反応したすべてでもあるはず。
4.ところがキシモトシンジの眼の前で何かが起きれば、それにキシモトシンジの脳の反応は当たり前に一致する
5.この一致を(脳:A)=(外:A)と表現してもいいけど、そもそも脳もただの物体。等号に意味はないので、ただAでいいじゃん
駆け足で振り返ってみました。
というわけで、イントロをすっ飛ばすと、外部の事実と脳の反応は一致するし、脳も世界に配置された物体のひとつなので、
(脳:A)=(外:A)は、ただAでいい
ってことです。(たとえ脳に障害があったとしても、障害があるなりの当たり前の反応をしますもんね)
……じゃあ、ここから何が言えるのか?
経験が脳から生じていますっていう話が実は怪しいってことが言えるわけです。
だってそもそも私が経験しているということは、まったく理解不能な事態です。
物理学のどこをひっくり返しても、経験していることそのものは導かれないんですよ?
脳のどこかに電気を流すと気持ちいいと報告する事例をいくら重ねて理論を構築しても、気持ちよさそのものを誰も説明できません(もちろん気持ちよさの原理も)。
それっていうのも脳はただの物体に過ぎないのですから、なにをどうやったって脳が経験を生み出すという方向性には無理があるからです。必ず精神世界のような二元論の構図をとって論を逃がす羽目になるわけです。
そうではなくて、キシモトシンジの脳が反応した事実そのものが経験だって言う方がよっぽど現実的じゃないでしょうか。
つまり、キシモトシンジの脳が反応するという条件を満たした事実だけが経験されているってことです。
(脳:A)=(外:A)はただAなのですから、事実Aそのものを経験Aと呼んでいるって考えるほうがストレートかつシンプルです。もうちょっと言うなら、等式の左辺だけ取り出して(脳:A)はただAということで(つまり事実のうち、脳の変化だけを経験と結びつけることで)、脳が経験を生み出すという考えをおおむね内包できたりします。
たとえば私が「ああ、この花は紅いな」と経験したのなら、花が紅いこととそのように脳が反応することを切り分けることができない(そもそもそんな必要がない)のですから、同じであることによって、私の経験は花が紅い事実そのものってことになります。
たとえ電極が差し込まれたキシモトシンジの脳に、コンピュータで作ったデータが流し込まれて花が紅いと感じていたのだととしても(脳:花が紅い)=(コンピュータデータ:花が紅い)はたんに花が紅いってことです。
もしそれをおかしいと感じるなら、花は紅色以外の周波数の電磁波を反射しない分子配列だから紅く見える(自然科学)ということをお忘れではないでしょうか。自然科学に言わせれば、紅以外の波長の光を吸収することによって紅く見える花があるだけです。もちろん、紅色の波長の電磁波そのものが紅いわけでもないですし。
ここで、他人と事実を共有する場合はどうなんだ?そのとき二人は混ざり合ってるのかよ?というまっとうな疑問があるかと思いますが、私の考えは「私の世界に経験する主体としての他者は登場し得ない」です。ご参照↓
はい、というわけで(脳:A)=(外:A)はただAでいいってことから、事実と経験の一致を導いてみました。次回は、この延長線上からもっとエグい一致を導き出してみたいと思います!よし、なるべく早く更新する!