私と世界の一致について(経験と事実の一致より)
来いよクリスマス!サンタの仮装で子どもを喜ばせてやる!銃なんか捨ててかかってこい!
……などとカラゲンキで吠えてみましたが、実際のところは正体が父ちゃんだとバレているキシモトシンジです。
さて前回は、事実と経験は一致しますよって話をさせてもらいました。
事実と脳の反応が一致し、脳がただの物体なのですから、経験は事実そのものです。(ただし脳が反応するという条件を満すことのできる事実に限る)
……といった前回の話を引き継いで、もっと極端な一致を語ってみたいと思います。
すこし話が戻るのですが、存在とは「そうであれば矛盾なく世界が成り立つことのすべて」であり、いかなる対象であっても世界において矛盾せずに成り立っていることが、私の経験においてのみ表われるのでした。
ここで事実と経験が一致するのですから、世界と私も一致します。
これを導くには、、、
存在するすべては私の経験においてのみ成り立つ + 事実は経験と一致する
→ 存在するすべては私の事実として成り立つ
世界とは存在するすべてなのですから、私は私の世界です。
よって 私と世界は一致 します。
(はい、これっておそらくはヒンズー教とかに出てくる梵我一如とかと似たようなもんじゃないでしょうか?私はヒンズー教も梵我一如もぶっちゃけよく理解できないし、理解しようという意欲もないので分かりませんけども。)
というわけで、私と世界の一致を論理的に説明できました。べつに奇妙奇天烈な話じゃないでしょ?
私と世界の一致は前述のヒンズー教うんぬんにもあるように、大昔から提唱されているありふれた現実認識ですね。
ただ、ニューエ○ジだったりス○リ○ュ○ルだったり、サブカルチャーの影響なんかもあってなんだかウサンクサい代物のように思われてしまうのが残念です。
……さて、私のつたない説明ではやっぱり「私は私の世界だ」と確信を持てないかもしれません。それはそれでまっとうなことだと思います。
だって、たとえばビッグバンのように間接的に存在する事実がたくさんあって、しかも日常の経験にしょっちゅう登場しますもんね。
それによって「私の外にある世界」に「世界の内にポツンと置かれた私」が配置されているかのように感じるのも当然のことです(つまり私と世界が一致するにもかかわらず、世界のごく一部しか知ることができないし、世界はほとんど思いどおりにならないですもんね。それなのに「世界だ」って言われても、ね)。
ということで次回は、そういった間接的な回り込みについて検討してみたいと思います。
ぐっちゃー